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目 次
2008年4月19日 |
ワイエスの描く光と影 | 中村音代 |
| 2008年4月7日 | フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ公 | 石鍋真澄ほか |
| 2008年3月29日 | ルネサンスのエロティック美術 | 越川倫明ほか |
| 2008年2月15日 | 南総里見八犬伝の夜 | 小池正胤 |
| 2008年2月8日 | 応為筆「吉原格子先の図」を中心に | 秋田達也 |
| 2008年2月2日 | 熊谷守一展オープニング・トーク | 池田良平 |
| 2008年1月12日 | 全部観てはいけないルーブル | ルーブル-DNP |
| 2007年10月9日 | ミネアポリス美術館の浮世絵 | 松涛美術館 |
| 2007年6月24日 | パルマ イタリア芸術の都 | 新日曜美術館 |
| 2007年4月28日 | ロシア美術史 | ウラミジール・グーゼフ |
| 2007年4月22日 | 近世風俗画から肉筆浮世絵へ | 田沢裕賀 |
| 2007年1月2日 | 国宝「信貴山縁起」の大宇宙 | NHK-TV |
| 2006年11月11日 | M.Cエッシャーの絵画と錯視構造 | 木島俊介 |
| 2006年11月4日 | 山口晃と歩く本郷当代界隈 | 山口 晃 |
| 2006年8月5日 | 新版画と川瀬巴水の魅力 | 渡辺章一郎 |
| 2006年7月29日 | クローデルとイタリア | 上村清雄 |
2006年5月27日 |
ワイエス‐記憶を引き出すマジック | 中村音代 |
2006年5月20日 |
キリスト教とギリシャ文化 | 川島重成 |
2006年5月13日 |
フランス近代絵画とジャポニスム | 高階秀爾 |
2006年2月4日 |
レンブラント・フェルメールの時代 | 小林頼子 |
2005年10月22日 |
バルセロナの光と影‐ガウディとピカソ | 大高保二郎 |
美術講演・映画 2008
| 今回の展覧会は、くしくも戸口に近いほうに戸外の画、遠いほうに室内の画が並んだ。戸外には光、室内には影が多いが、これは意図してそのように並べたものではない。
1. ワイエスとクリスティーナとアルヴァロ・・・ワイエスの影にはやさしさがあり、内面的なものがある。姉のクリスティーナは光、弟のアルヴァロは影として表現されているようである。アルヴァロはシャイであり、姉をひきたたせるためにワイエスに描かれることを嫌がった。このためワイエスは、アルヴァロの居た場所や彼の使った道具をアルヴァロの比喩として描いた。その意味で、ワイエスはアルヴァロに光を当てていたといえる。 <パネルの説明> 2. 《クリスティーナ・オルソン》 1947年・・・戸から室内へとはっきりとした影を描いている。この構図は、1)人物の背後が広い、2)人物が地平線よりも下に置かれていることから「悲しみの表現」であるとされる。 3. 《アンナ・クリスティーナ》 1967年・・・ワイエスは、メディチ家の家系の肖像のように死ぬ1年前のクリスティーナを描いている。ここでは、人物と家系の悲しみが表現されているが、影がほとんど見られない。しっとりとして穏やかで、やわらかな表現となっているが、これは霧の中で描いたとのことである。 <展示品の説明> 4. 《オルソン家の家》 1939年・・・ 「ゴシック風の田舎家」といわれる代表的な作品。これはアルヴァロの世界の表現である。大鎌は彼の道具。急な屋根の勾配がゴシック建築的。羽目板の一枚一枚数えて書いたという堅牢な画。手前の影、中央の日差し、そしてやや暗いワイエス・グリーンの草むらなど光と影の描き方が絶妙。草むらのスクラッチにも留意。スクラッチのためにファブリアーニ紙を使っている。ワイエスの白は紙の地の色である。ワイエスは死を考えた時に白を使い、生と死、此岸と彼岸の間に黒を使っている。 5. 《穀物袋》 1961年・・・ アルヴァロの肖像画! 穀物袋に光が当たり、その縁が耳のようになっている。一方、アルヴァロの耳には赤が使われている。こちらは血の通った耳である。ここには自然光はなく、影によって作り出された光だけが存在している。 (2008年4月18日) |
| 13:30−17:30という午後一杯のシンポジウム。最初に館長がイタリア語で挨拶。日本語通訳付き。次いで、このシンポジウムの監修者でピエロ・デッラ・フランチェスコの研究者である石鍋真澄成城大学教授の挨拶。 第1席は、東京大学大学院の伊藤拓眞氏の「フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロと美術」 全体のイントロダクションである。 まずはウルビーノ公フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの肖像とウルビーノやグッビオの位置を示す地図から始まる。 次いでフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロの概略。祖父はアントニオ(1348−1404)、父グイダントニオ(1378−1443)、その嫡子のオッダントニオ(1427−44)が暗殺され、庶子のフェデリーコ(1422−82)がモンテフェルトロ家の当主となった。フェデリーコは、ヴィットリーノ・ダ・フェルトロの教育を受けたが、兵士としてサン・レオ要塞の攻略で手柄をたて、当時ミラノ、ヴェネティア、フィレンツェ、ローマ、ナポリという5大勢力の拮抗するなか、傭兵隊長として勇名をはせた。フェデリーコは傭兵隊長として戦時のみならず、平和時にも軍備を整えるなどの傭兵契約を結んでいた。このことはウルビーノに富をもたらしただけでなく、ウルビーノがイタリア各地とのつながりをもつことに役立った。 そして美術のほうに話が進んで行く。侯爵宮殿(ウルビーノ パラツォ・ドゥカーレ)にみられる宮廷美術は外国人を含めた多くの芸術家の手によるものであった。ウルビーノの宮廷美術の第2の特徴としてははフラ・カルネバレーレという美術顧問を介してフィレンツェと密接な関係があったことがあげられる。 第3の特徴としては、ウルビーノが遠近法文化を有していたことが重要である。遠近法は、高度な応用科学で、ピエロ・デッラ・フランチェスカがウルビーノにおいて発展させ、ウルビーノやグッビオのストゥディオーロの寄木細工にも応用された。 さらに、ウルビーノはラファエッロを生み、ティッツィアーノの《ウルビーノのヴィーナス》にみられるようにルネサンス美術に大きな役割を果たした。 第2席は、埼玉大学 伊藤博明教授の「フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロと人文主義」
フェデリーコの人文主義的な成果としては、図書室、藝術のパトロネージ、パラッツォの装飾、ストゥディオーロの装飾がある。ストゥディオーロの装飾においては、天球儀は黄道すなわち天文学、四分儀は距離を測定する計器として人文主義の表象となっている。 第3席は、弘前大学 出佳奈子講師の「フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロのストゥディオーロ」。これは今回のシンポウムの白眉であった。 まず、「グッビオのストゥディオーロの紹介」。展覧会は先週見たばかりであるが、この講義を聴いて理解が進んだ。これは1477−83/86年ごろの制作。1939年にメトロポリタン美術館に売却されているが、今回6年がかりで地元の職人たちが実物大の複製を作ったものである。内面の下部は寄木細工の装飾で、遠近法を使って立体感を出している。窓からの光も計算されている。この上部に絵画があったのであるが、実物の画が残っているのはロンドンの2点だけであり、その他に2点の画像が存在する。天井にも寄木細工があるが、現在のところこの部分は未完成である。完成までにはあと1年はかかり、今回展示されているものと一緒にしてグッビオのドゥカーレ宮殿に納められる予定となっている。 次は、「イタリアにおける寄木細工」に関する説明である。これには、下記の4項に分けて詳述された。 @tarsia a toppo: これは木塊状嵌め込み細工で、複雑な工程である。tarsia
a toppoは、グッビオのストゥディオーロにおいても使用されている。 その次の話題は、「グッビオおよびウルビーノのストゥディオーロ装飾の作者について」。グッピオのストゥディオーロの《お菓子の木箱》とウルビーノの《お菓子の木箱》をくらべると、前者のほうが光と影のコントラストが強く、後者はその点やや平板に見える。このような点から、演者は、グッピオの作者はジュリアーノ・ダ・マイアーノ(1432−90)、ウルビーノの作者はバッチョ・ポンテッリ(1450−90)に比定している。 最後は、「グッビオのストゥディオーロ装飾とフェデリーコ・ダ・モンテフェルトロ公」。装飾より上部の壁には、前述のように絵画があり、それは《七自由学芸の擬人像》で、左から、天文学・修辞学(フェデリーコの息子グイドバルドが跪く)・弁証法(フェデリーコ自身が跪く)・音楽である。文法・幾何学・算術・を描いた絵画は失われてしまった。 装飾の最上段の帯状の部分は金の銘文で、この部分の複製もまだ完成していない。その文章は「とく高い母の永遠の学人であり、学ぶことそして天才というものを賛美するこれらの人物たちが、その母親の前で、いかに首をたれ、跪いているかを見よ。尊敬に値する彼らの敬虔さは正義に勝るものであり、その養育者たる母に従ったことを悔いはしない」となっている。 上段に描かれている道具について細かな説明があり、面白かった。マゾッチオ(置物)、シターン(九弦の楽器)、四分儀(長さの測定用具)、天空儀(黄道を示す天文学用具)、勲章などである。特に英国国王エドワード4世から授与されたガーター勲章はもっとも重要視されており、正面中央の遠近法の中心点に置かれている。これらの装飾は美しい組紐文様装飾で囲まれている。下段には、フェデリーコに関係があるいくつかの紋章があり、警喩を表す動物装飾もつけられている。 グッピオのストゥディオーロにおける書見台上の本に記された文章は、「世の人の最期の日はすべからく定められている。人の人生は短く、再び手にすることは叶わない。しかし彼らの望みはその名声を永久のものとすることにある。そしてこれこそが勇者の仕事なのだ」となっている。『ウルビーノ公はまさにその名声を永遠のものとしたのである』という言葉でこの素晴らしい講演が終了した。 第4席は、石鍋真澄教授の「フェデリーコ・ダ・モンテフェルトロとピエロ・デッラ・フランチェスカ」 ピエロ・デッラ・フランチェスカは数学や幾何学の本を三冊も書いている。算術論・遠近法画論・五正四面体論である。これらはグーテンベルグの印刷機に発明よりもほんの少し早かったので、印刷されず写本としてのみ残った。この本の一つにピエロはフェデリーコに対する献辞を書いている。ウルビーノは数学的人文主義ともいえるのであった。ピエロはフェデリーコより10年早くサン・セポルクロで生まれ、10年遅く死んだ。 その後、ピエロの有名な3点の画についての解説があった。 第一は、《ウルビーノ公夫妻》。これは傑作である!との一言。片目を怪我していたため横顔、とくに左横顔が描かれることが多い。珍しいものとしてフェデリーコの右横顔を描いた画もある。公爵夫人のバッチスタ・スフォルツァは、結婚した時には14歳で、38歳の夫の二番目の妻だった。結婚生活は12年続き、この間ウルビーノは大きく発展した。
講演後の聴衆からの質疑応答と討論はものすごく活発だった。その主なものをあげると下記のようである。 1.フェデリーコのアートに対する具体的貢献は何か。 (2008年4月7日) ブログ 1 (第1席、第2席) ブログ 2 ( 第3席 ) ブログ 3 ( 第4席、質疑 ) |
| 満開の桜をよそに、10:00−18:30という長丁場のシンポジウム「ルネサンスのエロティック美術―図像と機能」を西美の講堂で聴講した。われわれのように英語が国際語であると信じている人間には、イタリア語と日本語の同時通訳を聴くという珍しい機会でもあった。 モデレーターの挨拶: 開会の辞: ヴィーナス展の紹介: 第1セッション(1) 第1セッション(2) 第1セッション(3) インターミッション: 桜見物でにぎわう上野駅前のコンビニでサンドイッチを買って、日あたりの良い広場でのピクニック。同行5人。食べ終わって、西美の前庭に行ったら、エプソンの無料写真撮影サービスに遭遇。ロダンの《考える人》の前で、5人並んで、拳をアゴに当てた考える人のポーズで写真を撮ってもらった。 第2セッション(1) 第2セッション(2) 第3セッション(3) このセッションのトリは、ウフィツィ美術館素描版画室長のマルツィア・ファイエティ氏。やはり女性である。演題は「アゴスティーヌ・カラッチの好色版画」である。 インターミッション: 第3セッション(1): 第3セッション(2): フィナーレ: (2008年3月29日) ブログ 1(午前の部) ブログ 2(午後の部) |
| これは、「浮世絵の夜」の関連講演会である。 とても力の入った講演で、予定の90分が大幅に延長して135分になってしまった。帰ってネットで調べると、山東京伝、曲亭馬琴などの読本を専門とし、『南総里見八犬伝』岩波文庫版の校訂者として知られる小池 藤五郎教授のご子息で黄表紙研究者となっている。この講演に熱が入っていた理由も分かるというものである。 あらかじめ16枚のA4版のプリントを渡されているが、曲亭馬琴の読本「里見八犬伝」に絵師「柳川重信」が描いた夜の場面の口絵や挿絵が反射式プロジェクターで次々と映写されていく。それに基づいて物語が講談を聞いているよう展開していく。 まず、3枚の口絵《巨鯉にまたがって龍門を上る里見義実と漆毒で皮膚がただれた金碗幸吉》、《主家を乗っ取る悪臣山下定包と悪婦玉梓》、《「ことろことろ遊び」をする子供時代の八剣士と「ヽ大和尚」》が映され、八犬伝の概要が説明される。 この物語は20年以上もかかって出来上がった長編である。岩波文庫でも10冊になる。これに匹敵する長さの物語は「東海道中膝栗毛」くらいで、「源氏物語」はずっと短い。江戸時代にはとても評判になった物語であるが、明治になって坪内逍遥が「小説神髄」の中で「前時代のもの」と評価して以降あまり読まれなくなったが、最近「南総里見八犬伝」が再評価されてきている。 馬琴はこの物語の執筆中に視力を失い、息子も死んでいたので、嫁の路(みち)が代書した。みちの実家は医師であるため、漢字は知っていたとは思われるが、馬琴が字の訓読みをみちに教え、みちは泣きながらこれをマスターして代書を完了した。 物語は「永亨の乱」に始まる。1489年、管領足利持氏は執権上杉憲実に攻められて自害した。その際、持氏の二人の子は脱出して、結城友朝の助けを得て結城城に立てこもった。房総の国主「里見季基」と息子の義実は結城氏に味方したが、結局落城した。この際、里見季基は若い義実に二人の臣下をつけて城を脱出させる。 ここで《挿絵》が登場。義実は三浦半島の入江に辿りつき、対岸の安房に渡るため舟を探すが、漁村の少年に「戦乱のため舟を徴発されて魚取りさえできない》と毒づかれた。突然、群雲が湧いてまわりが暗くなり、稲妻がひかり、海面が波立つ。その時忽然として「白龍」が現れ、南を指して飛び去る。これとともにあたりが明るくなり、海も静まり、小舟に乗って従者の堀内貞行が現れる。 という具合に話しが進んでいく。このように書いているときりがないので、挿絵を後2図あげるだけにする。 義実は安房一国を押さえ、娘「伏姫」が産まれる。そして飼われていた「八房」という大きな犬を可愛がる。義実が敵に囲まれた時、この犬に「敵将の首を取ってきたら、伏姫を与える」といったところ、八房は敵将の首をとってきてしまった。こうして伏姫は八房とともに富山に移っていく。《挿絵》では、伏姫は自分の懐胎を知り、「覚えなきことだが」と言いつつ死を覚悟する。そこに飛びくる鉄砲の二つ玉。一つは伏姫に、もう一つは八房に当たる。遠くに見えるのは義実と堀内貞行の主従。 武蔵国「大塚」に住む「大塚番作」は、結城合戦の落城寸前に、名刀「村雨丸」を持って脱出。番作の息子「信乃」の世話役「額蔵」は、信乃と同じ痣、同じ玉を持っているのであるが、この額蔵と母が大塚に辿りついた時、路銀を盗まれ、吹雪の夜に行き暮れている姿を《挿絵》は示している。この母は死に、7歳の額蔵は一生飼い殺しの小者として引き取られていたのである。 このように、夜の場面の挿絵が沢山出てきて、思わず話を楽しんでしまった。プリントによると準備してあった挿絵は40図だったが、17図で時間切れとなってしまった。これで南総里見八犬伝の10分の1ぐらい話せたとのことである。恐るべき講演会だった。 (2008年2月16日) ブログへ |
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プロローグ: 大阪市立美術館は1936年創立の古い美術館で、中国絵画や古い日本絵画は所蔵しているが、浮世絵版画は所蔵していない。ただ北斎の《潮干狩》という重文があり、近年の東博の「北斎展》にも出した。和・洋・漢が一体となった絵で、遠くに富士山が見え、遠くが小さくまた青みを帯びて描くなど遠近法を取り入れている。 1.「吉原格子先の図」の概容
2.応為栄女とその作品
(2008年2月8日) ブログへ |
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第1章 形をつかむ
《腰かけた女》、《横向き裸婦》など初期の作品は色彩に乏しい。光がどのように当たっているかを見つめている。弱い光源で照らされたものをいくつか描いているが、《ランプ》はその一例である。正面を向いた《自画像》には強い自信が感じられる。《蝋燭》はとても良かった。この作品は文展出品作で、現在はとても暗く見えるが、元来はもう少し明るい作品だったという。 1910年に岐阜に戻り、鞍もつけずに馬を乗り回していたというが、その《馬》が出品されている。なかなか良い。 第2章 色をとらえる
光が出てくるとともに、形がくずれ、正確な形態が捉えにくくなる。フォービズム的である。このとき既に50歳となっているが、いまだに自分らしさを追及しているのである。《烏》が描かれたのは1935年頃だが、晩年に通じる輪郭線を用いた手法が出てきたことが注目される。 第3章 天与の色彩 究極のかたち
60歳を越えた頃になって一般の人から熊谷の作品が評価されるようになった。とくに木村定三氏の評価が本人の刺激になった。 《高原》など1940年頃の作品では陰影を描いているが、その後は描き入れなくなった。《松並木》はすっきりとした作品である。簡単な色で全体的な形を置き換えている。これでは署名は漢字であるが、その後最高作品は署名なし、次の作品はカタカナ署名、劣るものは漢字署名にしたというが、熊谷は署名を入れる場所に苦労して石碑の中に入れたりしているが、カタカナにして入れやすくなったのだと思われる。 《裸》では、背景を緑の部分と褐色の部分に2分割しているが、これは抽象絵画に近い構成である。 死をテーマとした作品としては、今回出ているのは《萬の像》と《ヤキバノカエリ》だけである。前者は、動員のため結核に侵されて死んでいく長女「萬」が自分を描いてくれといった作品で、熊谷の他の作品とはまったく違ったタッチである。後者は、長男が骨壷を持ち、画家と次女がその両脇に立ってこちらに歩いてくる有名な各品だが、これは時間をおいて、気持ちの整理がついた頃に描いたものであるとのこと。 熊谷は「人の作ったものはその時点で完成しているので描かない」といっているが、志賀直哉にもらった漢時代の犬のヤキモノは《机の上》で描いており、《玩具》も描いている。 《椿》が2点、《山椿》が出ているが、花の色も背景の水色も微妙に異なっている。《ケシ》は彼の代表的な作品で、つぼみや花の配置もここでなくてはならないという絶対的なものだという説明だった。 小動物は、身体が不自由になって外へ出なくなってから描いている。《豆に蟻》では、蟻は左の2番目の脚から動かしだすという観察すらあったとのこと。《げんげに虻》では音楽的なものを感じる。 《百日草》では違う色の線を使っているが、画家にとってはすべてが絶対的な色と形であった。《畳の裸婦》では背景分割が使われ、絶対的な形のバランスが保たれている。《風若葉》は、以前の《風》と同じモチーフ。虹はなくなっているが、風と若葉の勢いは残った。これが1974年にもう一度描いた《風若葉》に変わっていく。赤と黒の輪郭線が混ざったり、《立秋の秋》の雲に輪郭線がないなど、熊谷の画には絶対的なルールはない。 「猫」はコレクション・アイテムなので、なかなか展覧会に出てこないが、今回は4点集めることができた。《くろ猫》の青い目の目線はこちらを追いかけてくるしなやかさである。 「鳥」はとても可愛がっていて、自分の食べ物がなくても鳥に与えていた。《はぜ紅葉》、《きんけい鳥》は多彩な色彩のバランスが良い。蝶では、黒い《あげは蝶》を良く描いていたが、地味な《蛇目蝶》も描いている。 《紅葉》は空の色が美しく、リズミカルである。めずらしい「雪」の画が2枚出ている。《あじさい》は三角と四角と円しかないが、画一ではない。色のバランスにも細かい配慮がなされている。 月は学生時代のテーマで、最晩年まで何回も出てくる。《宵月》は小さい4号の中に美しい色遣いが凝縮している。 最晩年の画は、いっそう色彩が鮮やかになり、輪郭線が黒くなる。太陽のシリーズは同心円で、画商が好きな画。夕暮れ、夕月という同心円シリーズもある。 第4章 守一の日本画
第5章 変幻自在の書
(2008年2月2日) ブログへ |
最近、山口晃のトークショーは全部お付き合いしているが、今までのものは白板に得意の画を素早く描きながら語る絵画漫談だった。ところが今日の講演は今までとはまったく違う格調の高いものだった。その内容をサムアップする。 ■ 《マリアの七つの喜びの祭壇画》1480頃: 古い金箔の板絵。遠近法は不完全で、付き人も小さいが、当時はこれでよかった。現在の画も将来は批判されるだろう。 ■ アンリ・ベルジョーズ《聖ドニの殉教》1416年頃: 死体をしっかり見せるところが違和感があるが、古い板絵は日本に来ないのでルーブルでしっかりとみること。 ■ ヤン・ファン・アイク《宰相ロランと聖母》1435: かっちりとした油絵だが、当時絵具が悪かったため一般に厚塗りができず、水彩が透過して見えるところがある。空は厚塗りでも大丈夫。 ■ ボッチチェリ《若い婦人に贈り物をするビーナスと三美人》1483: ボッチチェリの画は質の差が激しい。線描のめくるめくような微妙な線が残っているところに注意すること。フレスコは残るがつやがない。剥がすことをストラッポと呼ぶ。 ■ レオナルド・ダヴィンチ《モナリザ》1503−06: 写真をパチパチ撮っているので、展示されているものは贋物!したがって見なくても良い。筆の刷毛目のつかないスフマートで、鮫肌状態だが、きめは揃っている。横から見ると最後に描いた盛り上がりの部分が分かる。 ■ ニコラ・プッサン《夏あるいはルツとボアズ》1660−4: 17−18世紀の画は玉石混淆だから真面目に見ていると大変。アルチンボルトやクリベッリは好きだが。 ■ フェルメール《レースを編む女》:: 類型のない画である。光のとらえ方が違う。光を玉のように置く。ラピスラズリの青を使う。映像的で、はかなく弱いが絶妙で、官能的ともいえる。小品しか作れなかったことは理解できる。 ■ 彫刻《キリスト降架》13世紀中頃: 古拙な味がする。肉体と魂を引き離そうとしている。彫刻にはレプリカが多いことに注意。 ■ ダヴィッド《皇帝ナポレオンと皇后ジョセフィーヌの戴冠》1806−7: 薄塗りのヘロヘロ、カサカサの画で地が見えている。このように粗いが観客の焦点が違い、画のあった場所に戻してみるとチョウド良い。 ■ ターナー《小川と湾の遠景》1845: この画を面白がったイギリス人が面白い。 ★ カフェ: 暑かった。日当たりを避けろ!サニーサイドに気をつけろ。おなかを一杯にすると、画に対する渇望感が減少する。 ★ 自分の画をルーブルに置くとしたら(質問): 贋作 (2008年1月12日) ブログへ |
美術講演・映画 2007
1.初期の浮世絵: 鳥居清信、奥村政信、奥村利信、西村重長らの浮世絵は、手彩色でむらがある。それでも富川房信の《西王母》になると色数が増え、次の錦絵への移行が感じられる。 2.鈴木春信: 見当をつけて多色摺とする「錦絵」は春信によって始められた。厚紙を使い、上品な絵で、知識人のサークルの間で楽しむ「知的な遊び」であった。当時は太陰暦で、29日の月と30日の月の区別が必要だったが、錦絵はそれを知るための絵暦として使われたのである。18歳くらいの若い女性の美人画であるが、和歌を下敷きとした《見立て佐野の渡り》、二十四孝の《見立孟宗》、腕を切られた鬼の茨木童子が渡邊綱の兜を掴んだ故事にならって女が男の傘を掴んでいる《見立羅生門》、旅人を鉢植えの木を焚いて温めた《見立鉢の木》、山吹の花を差し出す《見立太田道灌》など、古典の教養があることを前提としている。彫りの技術が素晴らしいことは、髪の生え際の出来栄えをみれば分かる。《見立佐野の渡り》の雪や《五常 禮》の白無垢の模様はエンボス、すなわち「きめだし」の技法が使われている。《三十六歌仙 源重之》などの文字も彫られているが、当時の書物もこのように作られており、技術的には完成していた。 3.勝川春章・春英: 個性的な顔立ちの役者絵。五代市川団十郎の大きな鼻をそのままに描いている。 4.鳥居清長・勝川春潮: 春信よりは年かさでチョット脂の乗ってきた八頭身美人。続き物は、それぞれでも独立して鑑賞できるようになっている。清長は、役者絵の鳥居派でありながら美人画を描いていたが、喜多川歌麿に押されて、役者絵に戻っていく。 5.喜多川歌麿: 最近は「歌丸」と呼ぶようになってきた。歌麿も最初は《画本虫撰》のような花鳥画を描いていた。寛政の改革の時代であり、有名な《婦人相学十躰 浮気之相》にしても白雲母は使っているが、色数は少ない。当時は表現にも制限があり、《高名美人六家撰 富本豊雛》では名前を描くのをはばかって、判じ絵としている。それでも《天狗面》では夏の着物の下の体が透けて見えている。 6.東州斎写楽: 寛政6年の1年間だけの絵師。《市川蝦蔵の竹村定之進》は市川団十郎と同一人物で、やはり鼻が大きく個性的でリアルな表現となっている。やはり少ない色数で仕上げている。 7.歌舞妓堂艶鏡: これも世界で7種類の絵しか見つかっていない寛政8年の絵師で、リアルでモダンな役者絵を描いている。 8.歌川豊国: ヒョロッとした役者絵。当時はこのような姿がうけたのだろう。 9.葛飾北斎: 初めは《金魚売り》や《大道芸人》のように横長、多彩色の上品で贅沢な画を描いていた。これらの絵の下には狂歌が書かれており、仲間うちで楽しんでいた絵である。北斎はその他に読み本を描いて暮らしていたが、70歳ごろからその画風がガラッと変わる。ちょうど外国からベロ藍が入ってきた頃である。《百物語》、《富嶽三十六景》、《諸国瀧廻り》、《諸国名橋奇覧》などのシリーズがそれである。北斎は、実景を見ないで絵を構成していたようで、《富嶽三十六景 甲州 三坂水面》に映る富士山は位置がヘンであり、夏なのに雪を頂いている。また、《富嶽三十六景 神奈川沖浪裏》のような時化の時に、舟を出すはずがない。北斎は花鳥画の錦絵も描いており、《朝顔に蛙》では蛙を探してみてほしい。 10.歌川広重: 本名は安藤広重で、歌川広重はいわばペンネーム。北斎と違い、広重はその辺にありそうなババくさい風景を叙情的に描いている。すべて初摺とはいえないが、きわめて早い時期の摺りのものが揃っている。《東海道五十三次 蒲原》ではこのような大雪は降らないのだが、広重はシリーズに変化をつけるために雪景色を描いた。《東海道五十三駅続画》は《東海道五十三次》のすべての絵を張った贅沢なもので、貴重なもの。《木曽海道六十九次之内》も出ているが、広重は実景を描いたのではなく、当時のガイドブックを参考にして描いた。《名所江戸百景 大はしあたけの夕立》はゴッホが模写した有名な絵で、上部に黒のぼかしが入っているが、絵師はぼかしを入れることを指示するだけで、作業は摺師に一任された。《名所江戸百景 真間の紅葉手古那の社継はし》のような極端な遠近法を取り入れたのは、かなり晩年になってからである。広重の武者画は風景画の中に人が描かれているだけといった感じで、今回出ている歌川国芳の武者絵に及ばない。 (2007年10月9日) |
今朝の新日曜美術館は素晴らしい番組だった。そこで、夜に再放送を聞きなおしメモを取った。ゲストには、今回のパルマ展を企画した国立西洋美術館のキュレーターの他に、声楽家の秋川雅史氏が出演しておられ、途中に会場からストラデッラの《教会のアリア》を熱唱された。 1.コレッジョ: パルマ大聖堂の大クーポラの天井画《聖母被昇天》↓には、キリストが降りてきてマリアを迎え、アダムやエヴァその他大勢の人物↓↓が描かれている。下から見上げると非常に立体的に感じられる。
コレッジョはその後パルマに出て、サン・ジョヴァンニ聖堂の天井画《聖ヨハネの彼岸への旅立ち》を描いたが、これは建築空間を絵画空間に変えるようなものであった。その画は優美でやさしく、音楽が聞こえてくるように神聖で、フレスコ画こそコレッジョの本領を発揮するものであることを示した。↓ パルマ国立美術館に所蔵されている《4聖人の殉教》は聖フラビアを描いたものであるが、この画は今回出展されている《キリスト哀悼》と対をなすものである。対面の窓からそれぞれ反対側に掛けられた画に光が当たるようにされており、《キリスト哀悼》ではキリストの体がとくに明るくなっている。 《幼児キリストを礼拝する聖母》の色彩は素晴らしい。これは、コレッジョがローマに出かけてラファエロの画やシスティーナ聖堂をみて学んだ成果であるが、ヴァザーリは美術家列伝の中で、「コレッジョはデザインには問題があるが、色彩表現については彼の右にでるものはいない」と述べている。 これはマニエリスムと呼ばれる手法であるが、《凸面鏡の自画像》を見ても自分の美意識にこだわるという傾向が現れている。↓ パルミジャニーノは若い頃コレッジョの影響を受け、コレッジョもパルミジアーノを買っていたようである。実際にサン・ジョバンニ聖堂には、パルミジアーノの壁画も残っている。馬の脚など壁面から飛び出しているように見えるほど巧い。幼児の壁画はコレジョもパルミジャニーノも描いているが、前者がかわいいだけの幼子であるのに、後者には自我のようなものさえ表現されている。 その後パルミジャニーノはローマへと旅立つ。その途中のフォンタネラートという小さな町のサン・ヴィターレ城で、天井画《ディアナとアクタイオン》を40日間で描いている。↓ この画は、緑の蔦、果物や花、大勢の天の子、古代彫刻像で構成されているが、コレッジョが女子修道院の小部屋に描いた16分割の天井画↓にみられる緑の蔦、天の子たち、ギリシャ神話と酷似している。しかしパルミジャニーノの《ディアナとアクタイオン》の人物には、伸張、曲線といったマニエリスムの特徴がすでに現れている。 コレッジョの画は、官能的で、肉体を自然にみられるままに描いているが、パルミジャニーノの画は、知的で、エレガントであり、彫像のように冷たい。すなわち自己の美意識を主張しているのである。パルマを離れて15年後に、ステッカータ聖堂で描いた天井アーチの乙女たちのエレガントさは、マニエリスムそのものである。この聖堂の祭壇の右には竪琴を持った《ダヴィデ》が掛かっており、左側には今回出展されている《聖チェチリア》が掛かっていた。アーチから手が飛び出している迫力のある画である。両者音楽に関係がある画で、パイプオルガンの扉絵だったとのことである。このように音楽の話題となったところで前述のアリアの独唱があった。 3.パルメーゼ家: パルマは生ハム(プロシュット)でも有名であるが、財力を蓄えたのはチーズ(パルミジャーノ・レッジャーノ)の独占的販売。公爵家は藝術・美術に関心が深く、「ピロッタ宮殿」の中には木製のパルメーゼ劇場が初めて創られ、初代の教皇パウルス3世はミケランジェロにシスティーナの天井画を描かせたことで知られている。2代目のオータヴィオ公爵はその「庭園宮殿」の装飾をジオラーモ・ミロラやヤコブ・ベルトーヤのようなマニエリスムの画家たちに任せた。「接吻の間」の壁画などがその成果である。 4.パルマ派の黄金時代: パルマ国立美術館には、パルマの黄金時代の傑作が残っている。アンニバーレ・カラッチの《キリストとカナンの女》は光と影のバランスを巧く使っている。彼の画の光の効果や影の描き方は独特なもので、カラバッジョの一方向からだけの光とは明らかに違っている。スケドーニの《キリストの墓の前のマリアたち》は素晴らしい画である。マリアたちの心理的なインパクトが衣服の質感に内蔵されている。色彩のグラデーションと強い陰影によって、時間が止まったような劇的な瞬間が切り取られている。 5・まとめ: コレジョはラファエッロと並び称されるルネサンスの大画家であるが、パルマ派全体を見ていかないと17世紀、18世紀への西洋美術史が繋がらない。パルマ派はルネサンス以降の美術史の大きな潮流の役割を果たしていたのである。 (2007年6月24日) |
| 1.講演者の紹介: 1945年生れ、1969年ペテルブルグ美術アカデミー入学、美術史専門 2. 国立ロシア美術館の紹介: 110年前に、ニコライ2世が設立、父親のアレクサンドル3世に捧げた。ミハエル大公の宮殿(ミハイロフスキー宮殿)を中心に、ストガノフ宮殿、マーブル宮殿、ミハエイロフスキー城の4箇所が美術館となっており、合計面積はヴァチカン市国に匹敵する。
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| (総論)
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第1巻 飛倉の巻(山崎長者の巻)
第2巻 延喜加持の巻
第3巻 尼公の巻
まとめ 独創的な奇跡の物語絵巻に、新しい映像技術と現代アートが加わった素晴らしいエンターテイメント作品である。
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美術講演会 2006
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1. 技術の表現における心理学的アプローチ: 「美術史の学者は宗教や心理学に近寄るべきではない」との教訓があるが、エッシャーの場合には「心理学」を無視するわけにはいかない。「描くのは知っているものであって、見ているものを描くのではない」という言葉があるが、これは「見たいように描く」ということでもあり、これはエッシャーにも当てはまる。
錯視構造とはillusion systemの訳である。illusionを「幻影」と訳す場合があるが、具合が悪い。ラテン語でil-lu-doreとは「遊び」であり、illusion systemとは「遊びの世界」なのである。 エッシャーの画には1つの画に2つの形態を組み込んでいるものがあるが、これは人間が同時に2つの形態を認識できないことを利用した「遊び」である。また立方体を描く場合、辺の描きこみ方によって、画像全体のイメージが大きく異なってくることも応用している。 「物質が生命を生み、生命が精神を生み出す」という言葉があるが、ホイジンガーが人間をhomo lu-densと呼んだのは、生命体が「遊び(lu)の精神」を得たことによってはじめて人間となりえたことを意味している。
画の発展過程を辿ると、点・線・面の組み合せにはじまり、これに陰影法が加わり、さらに遠近法が加わっている。 エッシャーの父は港湾技術者で明治6年から5年間滞日している。彼が作った福井県の三国港は九頭竜川の土砂によって使われなくなったが、「遊び心」で作ったドーム建築の小学校が今も記念館として残っている。
実際問題として版画家だったエッシャーは、世界を二次元的に見ざるをえなかった。彼は、物体を表裏・左右・上下という対立(ボードレールの照合という言葉に相当)したものとして見ていたのである。
永久運動を錯覚させる画、「山上の旅人が麓の宿の女性のタバコに火をつける」画(ホガースの作品、ホックニーのパラフレーズ)、ペンロースの「不思議な悪魔の三角形」、ギリシャのディオニソスの皿における黒絵式図像と赤絵式図像の逆転など、トリック・アートの歴史は長い。 エッシャーの版画では、図と地が交錯している。さらに明暗も交錯し対比されている。《アマルファーの階段》・《昼と夜》がその好例である。光は上から当たるので、光と影との上下関係も重要である。
「正則分割」とは分かりにくい日本語だが、英語ではregular division of the planeと平易な言葉である。 エッシャーは、ムーア人の作ったアルハンブラ宮殿のタイルにみられる幾何学模様を参考にし、これに現実的な姿すなわち具象的形態をはめこむことを考えついた。このように抽象形態からシステムを学んだものの、具象的なものを組み込むためには、エッシャーの努力と思考力が必要だった。
彼はこのために非常に精緻な幾何学的研究を行っているが、その過程はエッッシャー・ノートに残っている。「霊魂の復活」ともいわれるトカゲの永久運動、騎士のトリック、さらに「メビウスの環」なども無限性の表現の典型である。
エッシャーはイタリア旅行によって平面的なオランダとはまったく異なる立体的な風景を見て大きな衝撃を受けた。そして理想的景観(トポスあるいはユートピア)を意識したと考えられる。そしてこれが彼の正則分割を立体に向わせたのである。ちなみに「ユー=eu」とは「気持ちがよい」とのことであり、euphonyとは気持ちのよい音楽、euphoriaとは幸福感である。
球面体は自分のみならずその周囲も写すが、その裏面は見えず隠れた世界となる。イメージが辺縁に向ってだんだん小さくなっていく円形の絵画は球面体の表現であるともいえる。
しかしエッシャーのイタリア風景はこのようには表現されてはいない。一方、イスラムのモスクのドームは、半円形の理想の空間であり、神が現れる場所となっている。このようにユートピアとしては一定のレトリックで規定された世界が必要である。 ローマのサンクレメンテ教会のキリストの磔刑図に見られる唐草模様の中には、そのよう「メディコスモス」が残されている。これは楕円形の渦巻状のものであるが、そこはこの空間でしかエピファニーが起こりえないトポスなのである。背景のゴルゴダの丘が暗黒とすれば、その反対の真昼すなわちエピファニーの世界である。 エッシャーは球面体のこのような力に気付きながら道半ばで死んでしまった。裏から見た球面体になぜ気付いてくれなかったのかと思う。 エッシャーの世界は、同じものを繰り返す「異形の世界」である。最近の新しいエッシャー論にはついていけないが、自分としては「トポスあるいはユートピアの中にエッシャーの美が表現される」と思う。 |
| 丸善本店3階の日経セミナールームに聴講に行った。同行者はTakさん、Yukiさん、はろるどさん、Lysanderさん、さちえさん。 「山口晃が描く東京風景 本郷東大界隈」という本を売り場で買って講演会場に入った。1969年生まれの溌剌とした男性。彼の作品と写真による実景が交互に映し出されていくなか、ホワイト・ボードに漫画をすばやく描きながらアドリブの効いた話が進んでいく。 まず山口の出身校である東京芸大と今回の名所図畫の対象となった東大との関係について一くさり。東京芸大は上野の山、東大は不忍通りを谷としてこれに対面する本郷台にある。上野の山に立てこもった彰義隊は、本郷台から飛んでくる大村益次郎の大砲の弾にあえなく敗残した。予算の上からも芸大と東大は雲泥の差である。
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| 合計111枚の版画や写真をパワーポイントで示しながら、渡辺庄三郎の孫の章一郎氏が90分間流れるような講演をされた。下記はその一部であり、川瀬巴水の作品解説は省いてある。終わって質疑応答が20分以上あったのも例外的であり、版画愛好者の多いことが実感された。
1. 渡辺版画店 2. 初期の「創作版画」 3. 外国人の浮世絵師 4. 初期の「新版画」 5. 昭和期の「創作版画」 6. 関東大震災後の「新版画」 7. 第二次大戦後 |
| 1. この講演に登場する主要人物は下記の通りである。 カミーユ・クローデル(1864-1943) オーギュスト・ロダン(1840-1917) ミケランジェロ(1386-1466) ドナテッロ(1336-1466) メダルド・ロッソ(1858-1928)・・・イタリア人、ロダンと同時代パリで活躍。 チェッリーニ(1500-1571)・・・フィレンツェで活躍。 2. 19世紀末ヨーロッパ彫刻には下記の二つがあった。 3. ロダンーミケランジェロ・ドナテッロークローデル 4. 髪の変容 5. クローデルーロッソーロダン 6. 「ペルセウスとメドゥーサ」 7. クローデルーロダンーチェッリーニ □ 参考文献 レーヌ=マリー・パリス著、なだいなだ、宮崎康子訳:カミーユ・クローデル 1864‐1943.みすず書房、1989年 |
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<はじめに> 1. ワイエスのプロフィール・・・1917年7月生れで、現在88歳でもうすぐ89歳である。最近はさすがに衰えが目立ち、フィラデルフィアの回顧展にも車椅子で出席したとのことである。ワイエス22歳の1939年、自分の水彩画を見てもらうためクッシングのジェームス氏を訪れたところ、当人は不在で、出迎えたのは17歳の娘ベッツィだった。そしてベッツィは避暑に来ている際に、卵、ミルク、ブルーベリーなどを買いに行っていて仲良くなっていたオルソン家のクリスティーナをワイエスに紹介したのだという。ワイエスとベッツィの2人は翌年結婚する。クリスティーナは3歳ごろから歩行困難となっており、手の指も変形していたという。病因はポリオであるともいわれたことがあるが、現在ではリウマチであったと考えられている。貧困の中にも気品が高く、魂の交換ができるほどの精神性を有するオルソン家のクリスティーナと弟のアルヴァロに共感して、その後30年間生活をともにした。クリスティーナは、炊事くらいはできたようであるが、足が悪いため弟とともに1階で暮らし、ワイエスが2階と3階を使っていた。 2. 絵を描き始めたきっかけー父N.C.ワイエスの影響・・・父は有名なイラストレーターであり、ワイエスの絵画技術を指導した。彼には芸術至上主義を貫くことができるだけの経済的余裕もあった。しかし一方、父に対してはオディプス・コンプレックスを有しており、1945年に父が死亡してからはじめて絵描きとして一本立ちになったという面がある。 3. 「記憶を引き出して描く」ということ・・・ワイエスは、物をそのまま描くのではなく、自分がその物の本質から感じられるものを観る人に伝えるように描くといっている。そのためには描きたい対象の本質を一旦記憶に止め、これを想起しながら描くという「記憶を引き出して描く」方法を使っている。 4. 影響を受けた画家たち・・・ワイエスの素描はデューラーの影響を受けている。またドライブラッシュの技術もデューラーの作品に学んでいる。これはデューラーの《野兎》を見れば明らかである。 5. 技法について・・・1)素描、2)水彩、3)ドライブラッシュ、4)テンペラが主なものであるが、その詳細についてはかなり以前のインタビューで話した以外あまり明らかになっていない。彼はフェンシングを得意としていただけあって、鉛筆で描くのが早く、途中で鉛筆が折れることも少なくなかったが、その場合でも折れた鉛筆を使って描き進んだという。先に述べたドライブラッシュとは水分を絞った筆で水彩絵具を使って描く技法である。テンペラは卵黄と酢に絵具を混ぜて描く技法で、ボッチチェルリの昔からあって、画としては長持ちするが、描くのに時間がかかり、疲れるため1年に2枚ぐらいしか描かなかった。孫に聞いた話だが、ワイエスは赤い卵は使わなかったとのことである。 <おわりに> <展示品の説明>
(2006年5月27日)
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| 1. 異教文化の敗北?・・・ローマ時代以降、キリスト教が西欧文化の中心となるが、「ギリシャにおいても古代ギリシャ文化は異教文化としてキリスト教に敗北してしまったという単純な図式でよいのであろうか」という疑問について考察してみたい。 2.アウグストゥス時代におけるイエスの誕生・・・イエス・キリストがユダヤで生まれたのはヘロデ大王の時代(37-4BC)である。現在では歴史をAD (anno Domini)とBC(before Christ)に分けているが、実際にキリストが生まれたのはBC4年とされている。これは27BC-14ADの皇帝アウグストゥス(Gaius Julius Caesar Octavianus August)の統治時代である。この頃ローマには一旦平和が戻っていた。これをPax Romanaと呼ぶ。最近アメリカの一国支配下に平和が維持されている状況をPax Americanaということがあるのはこのアナロジーである。ルカによる福音書第二章によると、全世界の人口調査をせよとの勅令がアウグストゥス皇帝から出された。ダビデの家系であるヨセフは、身重の許婚の妻マリヤとともにベツレヘムというダビデの町に上っていったのは、この登録をするためだった。この時にイエスが生まれたのである。 3.新約聖書の史的背景としてのギリシャ文化圏・・・395年にローマ帝国が東西に分裂するように、東地中海世界のギリシャ語文化圏と西のラテン語文化圏は分かれて存在していた。ヨハネによる福音書第十九条は、イエス磔刑時の罪状書はヘブル・ローマ・ギリシャの3カ国語で書かれていたとしている。また、旧約聖書はヘブライ語であるが、新約聖書はギリシャ語で記されていた。キリスト教の伝道を行ったパウロはユダヤ人であるがギリシャ語を話していた。このような「散らされた」(ディアスポラの)ユダヤ人はヘレニストと呼ばれている。さらに重要な事として、ギリシャ語は現在も生きた言葉として話されているのである。BC4世紀のアレキサンダー大王の東征に伴い、マケドニアに及んでいたギリシャ文化が東方に拡大し、それまで使用されていた方言が共通語のコイネー・ギリシャ語に変わっていった。事実、アレキサンドリアで翻訳された旧約聖書(セプトゥアギンタ;70人聖書)はこのコイネー・ギリシャ語に翻訳されているのである。 4.パウロのアレオパゴス演説・・・使徒行伝第十七章には、パウロが伝道のためアテネに赴いた際、アレオパゴスの評議所で演説を行ったことが記されている。このころアテネでは偶像崇拝が盛んであったが、パウロは「知られない神に」と刻まれた祭壇があるのに気づき、その神がキリスト教の全能の神であるという演説を行ったのである。脱線するが、実際に書かれていたのは「知られない神に」ではなく「知られない神々に」だったいう話も残っている。しかし、キリストの復活の話を聞くと、アテネの人の多くはパウロを信用しなくなってしまったが、後にアテネの守護聖人となったアレオパゴス裁判人のデオヌシオなど一部のものはこの話を信じたとのことである。 5.「ギリシャ」は「非キリスト西洋」の代名詞?・・・古代ギリシ文化はキリスト教の存立以前から存在しているものであり、ギリシャ自体はキリスト教的である。慣習的に「西洋」とはイタリア以西を指すものであって、東地中海風土のギリシャは決して西洋の代表ではないことにも注意する必要がある。したがって、ギリシャ文化→ローマ文化という構図は成り立たない。 6.ギリシャとキリスト教の構造的対応・・・ギリシャ文化すなわち古代ヒューマニズムは人間的なものに強い関心を示していたが、それだけでなく人間すなわちヒューマニズムを超えるものへの指向もあり、その両者が緊張関係にあったともいえる。これに対してキリスト教はヒューマニズムを超えるものとして開かれてきたのである。 7.ギリシャのキリスト教受容の要因・・・マケドニアのアレキサンダー大王の東征は、ギリシャ本土のポリス文化の崩壊をもたらし、東方も含めた共通文化としてのヘレニズムが誕生した。またギリシャでは、自分の知らない神が存在する不安やドドネの神託において「どの神に訴えたらよいか教えてくれ」とゼウスに向って聞いているような多神教の問題点に起因して、5世紀にはギリシャ文化自体が変容してきていた。このような状況下においてキリスト教が受容されていったものと考えられる。 8.エウリピデス悲劇の特質・・・古典劇作家のうち、オイディプスのような英雄を書いたソフォクレスやアイスキュロスと異なり、エウリピデスはゼウスをはじめとするオリンポスの神々を信ぜず、英雄を書くこともしなかった。その意味でエウリピデスは預言者の役割を果たしたといえる。その代表例は「メーディア」である。彼女は夫の裏切りにあって息子を殺害しているのであるが、エウリピデスは彼女をして女性の惨めさ、不幸さについて具体的に「わたくしは一度お産するくらいなら三度戦争に出ることも厭いません」とまで語らせている。 (2006年5月20日) |
| 1. 1867年のパリ万博・・・1853年にペリーの来航があり、日本も鎖国の眠りから覚めたわけであるが、これは同時に産業革命を基盤とする交通輸送手段の発展の結果でもあった。パリ万博に先立つ1862年のロンドン万博にはウォールマット公使が持ち帰った日本の文物が出展されている。この時にフランスの詩人ゴーチェの娘Judith Gautierが日本からきたものを見て感動し、その後日本美術のフランスへの紹介に尽力した。パリ万博の開かれた1867年は、徳川幕府の最後の年で、幕府が作った日本館のほかに、佐賀鍋島藩と薩摩島津藩がそれぞれ別に出展していた。パリ万博の日本館の様子は当時のフランスの英字新聞に載せられた版画によって知ることができる。 2. 日本の大衆芸術の紹介・・・はじめは日本の芝居や踊りが興味を惹いたようで、パリのオペラ座でも《夢》という日本を題材とした演劇が上演された。当時は着物・扇子・傘などが珍しがられた。蝶々夫人のお菊さんの画では目が釣りあがっているが、当時西欧人からみると日本人の目は釣りあがっていると理解されていたようである。1900年になってからであるが、川上音二郎劇団の貞奴の舞台が大評判になり、Kimono Sada Yaccoという着物がパリで作成、販売された。
4. 浮世絵の影響・・・はじめは広重の草子ものの中に見られる魚の干物なども興味を引いたようである。事実、ロイヤル・コペンハーゲンの焼物にもこのようなデザインのものがある。ギュスターヴ・モローの水彩の中にも日本の絵草子の影響とおもわれるものがある。扇子や団扇などが大変興味を惹いたようで、モーリス・ドニ、ゴーギャン、マネなどの絵の中に静物として取り込まれている。陰影やグラデーションがなく、それでいてきっちりと対象をとらえるという浮世絵の影絵的性格、上から見た俯瞰的な構図、さらには縦長の作品などの日本の影響は、ボナールの画にはっきりと見てとれる。また北斎の富嶽三十六景のような連作は、モネがいろいろな連作を描いたことと関係がある。事実、モネが過ごしたジベルニーには多数の浮世絵が残っている。セザンヌがセント・ビクトワール山をくりかえし描いたことも北斎などの影響であろう。北斎の「波」は特に有名で、ドビッシーの交響詩《海》の楽譜の表紙となっているほどである。また《エッフェル塔三十六景》を描いた画家アンリ・リヴィエールは、自分の印鑑を画に押していてほどのいれこみようであった。
6. 絵画におけるジャポニスム・・・ |