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靉光は第二次大戦で召集され、39歳で戦病死するまで、独特な画風から画壇の主流からはずれた「異端の画家」である。また戦争画を一枚も遺さなかったことから、「抵抗の画家」とか「暗い谷間の画家」とも呼ばれている。
靉光の作品は、有名な《眼のある風景》、《自画像》、《花》など何点か見ているが、今までこのように年代を追って彼の画歴を俯瞰したことはなかった。応召に際して、自らの作品の多くを破棄し、故郷広島に残した作品は原爆で焼失するなど、現存する作品は少ないので、今回は靉光の約130点に及ぶ作品をまとめて見ることのできる絶好の機会であると考えて、展覧会初日に観に行った。
その画風の変化はめまぐるしく、短い生涯でもあったため、私には彼の真の到達点が見えてこないのであるが、展示の時代別・傾向別の分類に従って感想を書くことする。
第1章 初期作品
1907年に生まれた後の靉光は、少年時代から絵に興味を持っていたようである。今回出品されている《父(石村初吉)の像》はわずか10歳の時の作品であるが、そのデッサン力の確かさに驚かされる。21歳に描いた《祖母(石村キク)の像》ではさらにこれに磨きがかかっている。1929年の《コミサ(洋傘による少女)》は、ルオーの影響を受けた作品であり、《屋根の見える風景》は、まるでゴッホの画のようである。
1933年の《鬼あざみ》にはエゴン・シーレの影響が認められ、さらに1933年の《馬》、1934年の《編物をする女》のようにロウやクレヨンを溶かして絵具と混ぜ合わせた独特の「ロウ画」を描いている。《馬》はグアッシュに蝋を混ぜたものであり、なかなかの迫力である。この画は保存上の理由からめったに展示されないとのことであるが、今回は前期だけ出展されている。
《編物をする女》は私のお気に入りであるが、グアッシュにクレヨンが混ぜられ、さらに墨も使われている。この画はリエ夫人を描いたもので、背景には琳派の影響も認められる。
このように靉光の初期の作品は試行の連続であり、その苦労が偲ばれる。
第2章 ライオン連作から《眼のある風景》へ
このような模索のなか、靉光は上野動物園に通ってライオンを描くようになった。彼の描いたライオンは単なる写生ではなく、対象に迫るべくしつこく絵具を重ねたり削ったりする作業が繰り返されていくうちに、次第にライオンの姿が幻想的ともいうべき形象に変容してしまっている。こうした制作方法の延長線上で代表作《眼のある風景》が描かれたようである。1938年に描かれたシュルレアリスム的なこの作品のなかの眼は、観客を鋭く見つめ返してくる。
このように靉光の絵の特徴はなんといっても、過剰なまでに描き込まれた密度の高さである。1941年の《二重像》では、面相筆とよばれる日本画用の極細の筆で、驚くべき細密さで描かれている。これは画家自身の二つの異なる表情を重ね合わせたものであるが、その精緻な表現とダブル・イメージはダリの画を連想させる。
第3章 東洋画へのまなざし
その後、靉光は植物、虫、鳥が複雑に絡み合う濃密な幻想絵画を描くようになっていく。これは宋・元の絵画などに触発されながら、面相筆や墨を用いて不思議なイメージの世界を描いたものである。
このような作品はまさしく靉光独自の世界である。作品としては、《花園》、《蝶》、《静物(雉)》が印象的だった。もちろん好きという意味ではない。《素描図鑑》は、薄墨と濃墨を使った奇怪な鳥のダブル・イメージが連なっていく絵巻物であるが、じっと観ていると車酔いしてきた。
第4章 自画像連作へ
戦争の激化に伴い、前衛的な表現が取り締まりの対象となる中で、靉光は松本竣介らと「新人画会」を結成して、戦時下でも自分たちの描きたい作品だけを発表することを貫いたということであるが、残っている《ダリア》、《花》、《かます》といった作品を観てもまったく迫力が感じられない。応召に際して焼いてしまったという作品の中に前衛的作品が含まれていたのであろうか。
最後に彼は見つめる対象として、自分自身を選び、3点の自画像を描いた。これらは展覧会の最後に並べて展示されている。広島県立美術館蔵の《帽子をかぶる自画像》と東京藝術大学の《梢のある自画像》からは、力強く顔を上に向けて強風に立ち向かう意欲が感じられ、最後の東京国立近代美術館の《白衣の自画像》では、顔は前に向け遠く未来を見つめる姿となっていた。
まとめ
靉光の画業をこのように眺めてくると、彼の画風は絶えず変化しながらも、描く対象に鋭く迫り、写実を突き抜けた先に生み出された幻想にまで達しようとしていたことが分かる。もし戦争というものがなく、靉光にもう少しの時間が与えたならばどのように変わっていったであろうか。最後に残された自画像も決して彼の到達点ではあるまい。
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